倉地加奈子について

倉地加奈子
未来書き換え自分年表協会会長
私、倉地加奈子は三重県四日市で生まれました。幼少期から母に対して強烈な愛情不足を感じながら育ち、生まれた時から既に母と自分との間に壁を感じていて、その壁をなんとかして壊そうと、人の役に立てば母から誉められるはずだと信じ、学芸会の主役に立候補してみたり、地区のカラオケ大会にエントリーしてみたり、学級委員をしてみたり、いろいろと挑戦してはみるのですが、その度に、
「あなたなんかが目立ってはだめ!」「あなたなんかが前に出てはダメ!」「失敗すると世の中は怖いのよ!」
褒められるどころか、私が何かで自分を発揮しようとすると常に反対する。これが私の母でした。
中学校1年生の時、私が盲腸になった時には、母からこんな言葉を浴びせられます。
「好き嫌いが多いから盲腸になんてなるのよ!」「お金がかかることばかりして!」
運が悪いことに退院してすぐに、今度は、肉離れでまたまた病院に担ぎ込まれることになった時には、病院に駆けつけた母は開口一番、
「また病院にお世話になるなんて何をしてるの!」
心配してくれるどころか血相を変えて怒る母を見て、
「私って生きている意味あるのかな…?」
いよいよ、子どもながらに、精神的に自分を保てなくなっていきましたね。まもなくして私は、自律神経失調症を発症、緊急入院をしなくてはならなくなります。まだ、この病気が世の中に知られる、だいぶ前のお話しです。
結局、私はこの時から15年以上、自律神経失調症と付き合うことになり、大人になるまで通院を続けることになるわけです。
この入院をきっかけに、私の母への気持ちは、愛されたいから怒りに変わっていきました。
「お母さんは何も私のことをわかってくれないじゃないか!私を止めてばかりじゃないか!」
とにかく何をするにも必ず反対する母。それだけじゃなく、母は、私を自分の思い通りの人間になるようにコントロールしてくるのです。
高校受験の際には、兄が滑った高校に敵討ちだと、母が指定した高校に無理やり行かされました。行きたかった志望校に受かっていたのに!ですよ。
20歳になってできた彼氏に至っては、飲食店で働いているという理由で別れさせられ、さらに、就職してからは、仕事の帰りが遅いという理由で怒り狂い、職場までストーカーのように様子を伺いにくる。
「もう私、大人なのに!」
それだけではありません。仕事から疲れて、門限を過ぎて自宅に戻ると、スコップやゴミ箱が飛んでくる…。自分で書いていても「まあひどい!」こんな冗談のような生活、これが私の青春時代のすべてであり、それこそ、道とか世界観とかそんなものとは無縁の自分のやりたいことを制限させられる中で育ったのが私だったのです。
「母から逃げるにはもう誰かと結婚して自宅を出るしかない!」
20歳を過ぎた頃、私はとんでもない不純な動機でその時、付き合っていた男性と結婚し、自宅を離れます。
「これで母からは解放され自分らしい生活が待っている!」
そんな希望を抱き、やっとのことで母から離れましたが、そんな私に待っていたのが、今度は ”何をやってもうまくいかない生活” でした。
「母から離れたはずなのに…。仕事はうまくいかない…。結婚生活も…。でもなんでなの…?」
私の半生は、母の支配によって作られたと言って過言ではないほど、母は私に強烈な呪縛を与えていたのでした。
大人になって
母により幼少期から20歳を超えるまで、まったく幸せではない人生を送ってきた私でしたが、それでも私の唯一の支えと希望になったもの、それが父の存在でした。
私は大のお父さんっ子でした。愛する父は、私と母の仲違いを理解してくれていましたし、常に私の見方でい続けてくれていました。20歳を少し過ぎでの若すぎる結婚も、 ”母と離れたいためのもの” という私の真意をわかってくれていたため、賛成してくれましたし、母とのいざこざで精神的に落ちた時にはいつも、私の話を聞いてくれる優しい人、それが私の父です。
母から逃れ、スタートした私の結婚後の生活は、ほんと悲惨でしたね…。理由がわからないのもきつかった…。精神的にどんどん落ちていき、自律神経失調症に加え、この時、うつ病も発症します。結婚も仕事も何もかもうまくいかなくなり、でもそれが自分でも、なぜこうなっているのかわからない…。この時の感覚は、何かの箱の中に囚われているような感覚で孤独でした…。
「とにかく助けてほしい…。」
それしか思ってなかった。この時は常に、生死と隣り合わせだったと思います。
そして、いよいよ精神的限界を迎えた私に、当時の心療内科の先生は、いったん旦那さんと距離を置いて、父と同居をすることを勧めてくれました。そうでもしないと私の精神が持たないと判断したのでしょう。でも実はこれがとても嬉しかった…。
「お父さんが私と一緒に住んでくれる!」
真っ暗な闇の中でも何か希望のようなものが見えた気がしたのです。しかし次の日、信じられないことが起こります。私と一緒に住んでくれると昨日、約束したばかりの父が、あろうことか、原因不明の突然死を遂げたのでした…。
この時の精神的ショックは言葉で言い表せないほどです。病院に向かったこと、その後、お通夜とお葬式があったこと、ショックのあまり、覚えていません。ただ、火葬場で、もうこれで父とは一生会えないんだと認識した時、我にかえり…、その瞬間、私の中の何かが壊れました。それと同時にわかったのです。
「父の死は自分が引き寄せた…。」
これは何も自暴自棄になっていたから、そう思ったのではありません。私が母を超えられていないことが、うまくいかない結婚を呼び、うまくいかない仕事を呼び、そして父の死を呼んだ…。すべてを引き起こしていたのは自分だった…。そのことがはっきりとわかってしまったのです。
私は母から「あなたは目立ってはいけない」「自分を発揮してはいけない」と言われ続けて生きてきましたが、その結末がこれですか。母からの愛情不足をなんとかして埋めよう埋めようとして生きてきて自分を発揮しないでおこうと制御し続けたらこうなるんですか。
さすがにぶっ壊れましたね。それほど最愛の父の死は私にとってショックが大きかった。でもその時、同時に私の中で湧き上がってくる思いがありました。
「もうこれからは何からも囚われることなく自分の生きたいように生きよう。」
そう思えた途端に母の背中は小さく見え、価値観が180度変わったような感覚になったのでした。
起業そして現在
その後、私は離婚をし、仕事も変えて、自分の第二の人生をスタートさせました。30歳で起業をしたのですが、父の死以前の私なら、絶対にそんな選択はしていなかったと思います。母が自営業をすることに大反対していましたしね。「自営は危険だよ!世の中は怖いよ!」って。
でも、もうそんなことは私にとってどうでもよかった。もう母のことなんて気にならなくなっていた。価値観と人間が180度変わったのです。
「自分の世界を生きていいんだ!自分を発揮して仕事をしたい!」
これが私が起業することになった理由です。でもほとんどの人もやはりこのような動機から起業を志すのではないでしょうか?
私は現在、幼少期に愛情不足で育ったことで、母の気を引くために私の中で磨かれたウルトラCを生み出す力を使って、クライアントさんの自立をお手伝いさせてもらっています。
よく、なぜ加奈子さんはウルトラCを思いつくのですか?という質問を受けるのですが、私からすると、小さい頃からずっと母の目ばかりを気にして生きてきたので、強烈な洞察力がついてしまい、さらにどうすれば効果の高いやり方になるかというステップがわかってしまうためです。
私は強烈な愛情不足、自分のリミッティングビリーフによって一番大事な人を失った人間として、昔の私のように強烈な力によって引き上げて欲しいと待っている人たちを引き上げることができます。
どんな立場でも、未経験でも、そして女性でも、再現性の高いステップ型のウルトラCを手に入れることができれば、いつからだって人生を劇的に変えることができる。そのことを多くの方にお伝えしたくて、日々、ウルトラCを開発し教えています。
あなたもウルトラCを手にして私と一緒に自立のためのステップを歩んでいきませんか?私が力になります。